京都ふじわらFP事務所

お金と人生をデザインする。京都の独立系ファイナンシャルプランナーです。

国立大学法人法改正案が日本の未来をジリ貧に追い込む?それ、われわれ庶民の家計に何の関係があるの?


皆さま、ご安全にお過ごしでしょうか!独立系FPの藤原@CFPです。

今回のお話は、少し(いや、かなり)きな臭い話になりますが、われわれ個人の生活や家計にも長期スパンで大きな影響を及ぼしかねない問題なので、国立大学OBで教育行政に関わったこともあるFPとしての立場から問題提起をしておきたいと思います。
国立大学なんて行ったことなし、子どもも行く予定はないからどうでもいいし、興味ないよ。そう感じられる方も多いと思いますが、実は全国民にとって、真綿で首を絞められるように、徐々に大きな悪影響が生じる可能性もある、かなり怖い話なのです。

国立大学法人法改正案の問題点

以下の記事にあるように、国立大学法人法の改正案が国会審議中です。詳細は記事をご覧ください。
www.tokyo-np.co.jp
www.nikkei.com
改正案の問題点は、簡単にいえば以下のとおりです。

  1. 大規模国立大学の経営トップ「運営方針会議」に民間経営者等が参画し、政府による支配・統制が強まる
  2. それにより「学問の自由」や「大学の自治」という、血を流して学び取った重要な理念が骨抜きにされる

これの何が問題かとえいば、学術研究は研究者の自由な知的興味によって発展してきたので、統制の強化や「選択と集中」により、研究分野の統廃合のようなことが起これば、日本において50年、100年単位で知的活動の低下が起こりかねないからです。
そもそも「日本は天然資源が乏しいから、人間の知的能力で世界に伍してゆくしかないよね、天然資源の活路を求めるあまり戦争に突入して、しかも大敗したのだし、今後は国立大学には庶民も入れるようにして、知的活動の成果を産業に結びつけて勤勉な国民性を発揮して経済発展しましょうね」というのが戦後の一定のコンセンサスだったのですが、昨今は貧すれば鈍すといいう言葉もあるように、不景気が長期に続いたため、短期的に効率的に「知的活動の成果を産業に結びつけて」の部分を安直に追求しようと考えるようになったわけです。

でも、政府も夢見る革新的な科学技術イノベーションは、狙って起こるものではなく、ほぼ偶然の産物と言われています。狙って起こせるイノベーションなら、みんなやっとるわい!ということですね。研究者個人の純粋な興味関心に沿って地道な基礎研究を積み重ねていった先に、偶然にこの技術がこんなことに使えることがわかる、こんな技術と組み合わせると実用的に使えることがわかる、といった筋道で、テクノロジーは発展してきたといいます。

研究費は「選択と集中」ではなく、幅広く配るほうが研究成果という山の頂は高くなるというのが近年の共通理解です。そもそも、文科省所管の科学技術・学術政策研究所(NISTEP)が取りまとめた 「令和4年版 科学技術・イノベーション白書」によれば、「日本全体の研究力を向上させるためには、(中略)上位に続く層の厚みを形成するといった施策が必要であるといえる。」としています。
知的活動を活性化させて将来の種をまくには、研究費を広く配布することと、教育費用を低く抑えることが確実に有効な方策です。そしてそのことは文科省も認識はしているわけです。*1

法案提出の背景があまりに胡散臭い

そもそも、国立大学が法人化されたのも、当時の行革路線で国家公務員の定員削減の数字合わせ(25%削減!)のために生贄にされたというのが実情で、高邁な理念ではなく、非常に筋の悪い辻褄合わせの政策によって命運が左右されてきました。

国際卓越研究大学構想の中に、学外有識者の意思決定機関が構想されていたのですが、それがなぜか急に卓越大学に限らず大規模大学に同様の機構を課すという改正案が提出されたという経緯ですが、そもそも法案は誰の発案なのかが、いまだに不明です。
文科省は基本的に国立大学は身内と認識していて、大学寄りの姿勢のはずなので、唐突な改正案の震源地は政治マターに違いないと思います。文科省の野望として、国立大学を支配したいと考えることはほぼないと思います(人事ポストは狙うとしても)。

例えば「大学ファンド」と卓越大学の構想は、自民党の甘利議員と渡海議員が中心となる「チーム甘利」によって行われたといわれています。渡海議員は今後も資金の使い道に関与するとまで発言しており、東大の五神総長、JSTの橋本氏、内閣府総合科学技術・イノベーション会議(CSTI)の上山氏などが中心人物だったようですが、彼らが現在も「大学ファンド」実施の実務的な中心であることは間違いなく事実です。法人法改正案も「大学ファンド」&卓越大学構想と同様に、文科省案件ではなく、内閣府による政治案件ということになるのでしょう。
fp-f.net
上記の日経新聞の記事では「資産10兆円規模の大学ファンドで支援する「国際卓越研究大学」の候補を選ぶ過程で大学側と議論し、必要性を認識したという。」と書かれていますが、大学側と意見交換するなかで、文科省の独自判断として卓越大学以外も含めて必要性を認識するようになったという意味でしょうか?でも文科省が主体的にそう考えたなら、今回のような大学側が全く寝耳に水の法案提出はしないでしょうから、内閣府総合科学技術・イノベーション会議(CSTI)が主導した政治案件と考えるのが自然ではあるでしょう。CSTIと文科省の間には(当然ながら)軋轢があるとも囁かれており、そのためアカデミア業界のなかでも、胡散臭い怪しい改正案という警戒感と不信感が拭えないのです。

われわれ一般庶民になんの関係があるのか?

では、この改正案はわれわれ一般庶民になんの関係があるのでしょうか?
前述したように、「学問の自由」を制約する意図があるため、本改正案によって将来的に日本の研究力が低下する懸念があります。
日本の場合、研究力の低下は国力の低下に直結します。新産業は勃興せず、教育(知的)水準も低迷し、経済的にも縮小を続けることになり、国民生活、家計はジリ貧に追い込まれます。それでも勤勉な国民性を失われないとすれば、昔のように「世界の工場」として単純低賃金労働を強いられることになるのかもしれません(女工哀史の世界の再来となるのでしょうか?)。

われわれFPは、職業柄「人生100年時代」の家計のキャッシュフロー表を作成するのですが、その時に、数十年後のジリ貧の(あるいは戦時下にある)日本の未来をどう折り込むかを考えることが必要になるのかもしれません。ドルを持つべきなのか、やはり金がいいと考えるのか、あるいは?

最後までお読みいただきありがとうございます。
それでは今日はこのくらいで。本日もご安全に。

*1:とはいいながら、大国が軍事研究に大金を注ぎ込んだ研究成果が民間転用されて産業が興ったという過去の事実(科学技術史の暗部)もあるので、なかなか単純に割り切れないところはあるのですが。さらに、政府は大学による軍事技術研究を真剣に求めているらしく、今回の改正案の究極の意図がそこにあるというのは、どうも否定できない事実らしいです。「デュアルユース」とか「Kプログラム」とかきな臭いタームが飛び交っています…